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    イントロダクション

    第二次大戦後、戦争捕虜としてシベリア(旧ソ連全土)・モンゴルに57万5千人が抑留され、5万5千人以上の人が亡くなった。だが、樺太などの地域に残った民間人で、戦争捕虜としてではなく謂れのない罪でソ連当局に逮捕され、強制労働を強いられる政治犯収容所や、広大なソ連の僻地で行方不明になった人は2千人以上存在すると言われる。その中で、カザフスタンに送られた人数はかなり多くいたものと思われるが、日本政府が把握できたのはたったの18名。しかも、ソ連崩壊の時まで生き残ったのはわずか4人だった。その4人のうち、阿彦哲郎(あひこてつろう)と三浦正雄の物語を映画化したのが『阿彦哲郎物語 戦争の囚われ人』と『ちっちゃいサムライ 三浦正雄の子供時代』である。阿彦哲郎は2020年6月にカザフで、三浦正雄は2022年1月に北海道で亡くなっているが、いま改めて「民間人抑留者」である彼らの存在を知ることは、ロシアのウクライナ侵攻以降、日本人にとって喫緊の事実を教えてくれるだろう。

    阿彦哲郎物語
    戦争の囚われ人

    (2022年/カザフスタン・日本/112分/カラー)

    戦後、樺太に取り残され、謂れのない罪によって逮捕され、“史上最悪”と悪名高いスターリンの政治犯強制収容所にたった1人の日本人として放り込まれた阿彦哲郎が、「日本に帰って家族に会いたい」という思いだけを胸に、生き抜いて収容所から釈放されるまでを描く。「阿彦哲郎は日本とカザフ友好の礎」と捉えるカザフスタン政府が、制作費300万ドル・製作期間3年・3,000人のスタッフをつぎ込んで完成させた歴史大作。主演にはキックボクサーでKNOCKOUTーREDフェザー級王者の小笠原瑛作(クロスポイント吉祥寺)を抜擢。収容所の過酷な労働に打ち克った阿彦の心と体を、その鍛え抜いた身体で豊かに表現し、映画初主演とは思えない圧倒的な存在感を見せた。

    キャスト

    • 小笠原瑛作

      小笠原瑛作

      主人公 阿彦哲郎役
      1995年、武蔵野市吉祥寺生まれ。小学校5年生の時に、クロスポイント吉祥寺でキックボクシングを始める。明星学園高等学校在学時の2011年キックボクサーとしてプロデビュー。まだ17歳だった2017年REBELSムエタイ-フライ級王者決定戦を制し、王座初戴冠。トップ選手として活躍。そうした活躍の最中、多摩美術大学美術部演劇舞踊デザイン学科を卒業。以後、WPMF世界スーパーバンタム級王者、ISKA世界バンタム級王者(K-1ルール)、初代KNOCK OUT-REDスーパーバンタム級王者となる。現在は、主戦場をKNOCK OUTとし、KNOCK OUT-REDフェザー級王者として活躍する。また、2023年8月25日、世界で最も注目を浴びる国際的な格闘技イベントONE(会場はムエタイのメッカでもあるタイのルンピニースタジアム)に参加し、わずか31秒でのノックアウト勝利を飾り、一躍、世界が注目する日本のトップ選手となった。また、小笠原本人が、武蔵野市内でREY-Ⅱという飲食店を経営。この店では、休日の昼間に、ウクライナから避難しているウクライナ人家族に店を無料で貸し、ウクライナ人家族の日本での避難生活を支援している。映画のなかでは、収容所の過酷な環境に歯を食いしばって耐え、そして生き抜こうとする主人公の言葉にできない心と体を、鍛え抜いた小笠原瑛作の魂が迸るように体全体で熱演。映画初出演とは思えない存在感を映画全般にわたって見せている。
    • スルム・カシュカバエフ

      スルム・カシュカバエフ

      アカジャン役
      1979年1月4日アルマトイ生まれ。1999 年にかけて、カザフ国立芸術アカデミー演技部門を卒業。現在まで – カザフスタン共和国国立アカデミー 音楽演劇劇場−名称K.クアニシュバエワで俳優として活躍。
    • アサナリ・アシモフ

      アサナリ・アシモフ

      アカジャンの父役
      1937年3月8日ジャンブール生まれ。カザフ国立音楽院カザフ芸術アカデミー舞台芸術学部を卒業後、舞台俳優そして映画俳優、さらに演出家、映画監督として活躍。カザフの芸術家として名を馳せる。ソ連時代の1980年には、ソ連人民俳優となり、ソ連を代表する俳優の一人になった。ソ連崩壊後も引き続きカザフスタンにおいても活躍を続け、舞台俳優・映画俳優の頂点に君臨し続け、カザフスタン人なら誰もが知っている知名度を誇る。日本の俳優として位置付けるなら、森繁久彌をイメージすれば分かりやすい。
    • かざり

      かざり

      秀子役
      三重県出身。日本大学芸術学部デザイン学科卒業後、陸上自衛隊で勤務。「恐ろしく美しい元自衛官」「元自衛官現代アーティスト」として、タレント、現代アーティスト、女優、モデル、YouTuberとして幅広く活動。2023年、防衛省広報アドバイザーに就任。自衛隊の広報活動やCM,映画等国内外を問わず活動中。

    スタッフ

    • プロデューサー兼カザフスタン側監督

      アリヤ・ウバリジャノヴァ

      1969年生まれ。カザフスタンを代表するプロデューサー。代表作は、「スターリンへの贈り物」(釜山映画祭オープニング作品) 「千人の戦士(日本版DVD「ダイダロス希望の大地」、アカデミー賞外国語 賞エントリー作品・制作費8億円)、アレクサンドル・ネヴァ川の戦い (日本版DVD「アレクサンドル〜ネヴァ大戦〜」制作費12億円)。これまでは、 豊富な資金による大作を中心に製作。カザフスタン映画界のヒットメーカーとしても名高い。今回の作品については、カザフスタン側監督としても参加。自身初監督作品である。

    ちっちゃいサムライ
    三浦正雄の子供時代

    (2022年/カザフスタン・日本/112分/カラー)

    終戦直後、疎開していた北海道から家族を探しに行った先の樺太で逮捕され、わずか14歳で日本から8,000kmも離れたカザフスタンに流刑となり、53年もの間をカザフで過ごした三浦正雄。世界でも珍しい淡水と塩水の性質を持つバルハシ湖及びイリ河を舞台に、後年、現地の自然保護官としても活躍した三浦の子供時代を描く。中央アジア映画界の才能が結集し、カンヌ主演女優賞受賞のサマル・イスリャモヴァ、カザフを代表する映画監督であるダレジャン・ウミルバエフ、さらにキルギスを代表する映画監督のアクタン・アリム・クバト(『馬を放つ』『父は憶えている』〈23年12月1日公開〉)も出演する。また、過酷な運命の中で傷つきながらも、雄大な大自然と人々の優しさに心癒されていく三浦少年を、映画初主演となる佐野史将が好演した。

    キャスト

    • アクタン・アリム・クバト

      アクタン・アリム・クバト

      ウビライ役
      1957年生まれ。キルギスタンを代表する映画監督兼男優(キルギス国民芸術家)、各国際映画祭でも高い評価を受け、前作「馬を放つ」が東京岩波ホールでのロードショーされたのをはじめ、2022年東京国際映画祭コンペティションにも主演監督作品「父は憶えている」が招待された。本作品はアジア太平洋アワードで優秀賞に輝き、12月1日から東京、新宿武蔵野館でロードショーが予定されている。今回の映画では、アクタン自身が自分は狩人であると自負し、脚本作成段階から参加し、ウビライのキャラクター作りに協力。また、撮影では、劇中でウビライが使う小道具まで、自前で準備した。馬に乗ったり、舟を漕いだり、芸術家でありながらマッチョでタフなアクタンの魅力を遺憾なく発揮してくれている。
    • サマル・イスリャモヴァ

      サマル・イスリャモヴァ

      マリヤム役
      1984年生まれ。カザフスタンの国民女優。東京国際映画祭グランプリ作品「チュルパン」で映画デビュー。2018年、主演作品「アイカ」でカンヌ国際映画祭主演女優賞を獲得し、世界的な女優となる。今回の映画では、アクタンと同様、脚本作成段階から参加。小さい頃に亡くなって殆ど正雄の記憶には残っていない母親の面影を、日本とは縁のないカザフスタンの女性の中に持っているという難しい役柄を、セリフではない、感情の起伏で表現し、存在感を見せている。
    • ダレジャン・ウミルバエフ

      ダレジャン・ウミルバエフ

      ムハンベット役
      1958年生まれ。カザフスタンを代表する映画監督。ソ連時代に「カイラート」で世界デビュー。1998年の「キラー」がカンヌ国際映画祭ある視点部門でグランプリ(ある視点賞)となり、ジャン=リュック・ゴダールから激賞される。また、「ある詩人」で2021年東京国際映画祭監督賞を受賞。役者としては、佐野伸寿作品「ウイグルから来た少年」に出演、ダレジャン・ウミルバエフの幅の広さを示す。今回は、一癖も二癖もある村の郵便配達員の役を怪演。
    • 佐野史将

      佐野史将

      主人公 三浦正雄役
      2010年生まれ。2021年製作「阿彦哲郎物語」の主人公の弟裕三役でデビュー。今回の「ちっちゃいサムライ」が映画出演2作目。今回の作品では、周りを囲む実力者の中で、気負うことなくナチュラルに演じることができた。役作りは実際の三浦正雄さんには2歳の時に初めて会い、亡くなる前の2019年にも家にお邪魔して話す機会があった。さらに、三浦さんのご家族と親交を深める中で、自分なりの三浦正雄像を作り上げ、映画の撮影では、演じるというより、実際の三浦さんならどう行動するかを常に自分自身で考え、それに従った。小笠原瑛作との共演で影響を受け、明星学園中学校に在学中。

    スタッフ

    • カザフスタン側監督

      エルラン・ヌルムハンベトフ

      1974年生まれ。カザフスタン側監督。2011年佐野監督との共同監督作品「春、一番最初に降る雨」で監督デビュー。同作がカザフスタン最大の国際映画祭ユーラシア映画祭でグランプリを獲得。2015年「くるみの木」が釜山映画祭でグランプリ。2020年日本で公開された森山未來主演作「オルジャスの白い馬」(釜山国際映画祭2019年オープニング作品)を監督。今回の作品では、旅芸人の子供、カエサル、ニーナは自身の子供。2人だけでなく、家族全員総出演で作品作りをした。最近、映画作家としての評価が低迷していたので、この作品で復活を期す。
    • 撮影監督

      ムラト・ヌグマノフ

      1946年生まれ。カザフスタンを代表する撮影監督。1987年に撮影監督として参加した「(日本語題名)僕の無事を祈ってくれ」では、その自由を希求するテーマによってソ連国内の若者の支持を熱狂的に受け、ソ連全体のムーブメントとなり、文化的側面におけるソ連崩壊の一役を担ったと言われている。佐野監督とは、最初のプロデュース作品「ラストホリデー」から、「泣くな」、監督作品「春、一番最初に降る雨」で撮影監督を務める。
    阿彦哲郎物語 戦争の囚われ人/
    ちっちゃいサムライ 三浦正雄の子供時代
    2作品共通監督・脚本・製作

    佐野伸寿

    1965年生まれ。6歳から仮面ライダーやザ・カゲスターなどの子供番組、そして、野村芳太郎監督作品「ダメ親父」(タコ坊役)等で子役として活躍。その後、防衛大学校を経て自衛隊に入隊し、レンジャー訓練などの教育を受け第一線部隊勤務。1994年から外務省職員として在カザフスタン大使館に書記官として赴任。そこでカザフスタンの映画人と知り合い、大使館勤務の余暇の中で製作した「ラストホリデー」が1996年東京国際映画祭ヤングシネマ部門で東京ゴールド賞を獲得するなどして映画製作者としての活動を始める。その後、7本の映画を製作及び監督をして、映画作家としての道を歩む。また、大使館時代、日本人抑留者問題を担当し、1994年阿彦哲郎さんの一時帰国を支援。また同年、連絡が取れず行方不明になっていた三浦正雄さんを捜索し、アルマティ州バカナス近くのウシジャルマ村で発見し、翌1995年に一時帰国につなげる。阿彦さんや三浦さんだけではなく、カザフスタンに残っていた未帰還邦人(民間人抑留者4家族及び未帰還邦人2家族)の帰国に尽力をした。その後、1997年に帰任したが、その後も抑留者の方々との交流が続き、一時帰国や永住帰国に助力した。日本シナリオ作家協会会員。

    フィルモグラフィ

    プロデュース作品

    • 「ラストホリデー」
      1996年製作
      東京国際映画祭 東京ゴールド賞&都知事賞
      ロッテルダム国際映画祭 タイガーアワード賞
    • 「アクスアット」
      1998年製作
      ベルリン国際映画祭公式招待作品
      ナント三大陸国際映画祭 審査員特別賞
    • 「三人兄弟」
      2000年製作
      ベルリン国際映画祭公式招待作
      トリノ国際映画祭 審査員特別賞
      東京国際映画祭 ベストアジアフィルム賞
    • 「歌って」
      2002年製作
      キノショック国際映画祭 監督賞
    • 「父への電話」
      2017年製作
      オレンブルク映画祭グランプリ

    製作・脚本・監督作品

    • 「ウイグルから来た少年」
      2008年製作
      モントリオール国際映画祭公式招待作品
    • 「春、一番最初に降る雨」
      2011年製作
      ユーラシア国際映画祭グランプリ(最優秀作品賞)

    映画資料

    1

    もう一つのシベリア抑留 民間人抑留者について

    Ⅰ知られず忘れられていたシベリア・カザフスタン民間人抑留者
    残留の歴史のクレバスから現れた人たちの人間ドラマ

    ノンフィクション作家 石村博子
    映画「阿彦哲郎物語」「ちっちゃいサムライ」の背後にある「もうひとつの抑留史」

     「シベリア抑留」というと、軍人の悲劇という印象が強くあり、実際約57万5千人の軍人・軍属が「捕虜」としてソ連極東、シベリア、中央アジアやモンゴル、遠くウクライナの収容所に送り込まれ、過酷な労働・飢餓・厳寒の三重苦のために約5万5千人が異国で命を奪われた経緯が歴史的事実として刻まれている。
     だが、日ソ停戦協定締結時の戦争捕虜として抑留された人々とは全く違ったかたちでソ連に残留した人々がいたことはほとんど知られていない。彼らは一般人であり、職業は鉄道員、炭鉱夫、大工、運転手……とさまざまだ。普通の暮らしを送るなかで1946年から48年、「ソ連国内の法律に触れた行為や事故」によって突然逮捕され、シベリアのラーゲリに移送された。

     ラーゲリで過酷な労働を強いられた末、刑期が明けてもそのままどこかに移住させられ、ソ連領内での残留の運命を受け入れる。そしてその後も帰国する機会のないまま、生死不明の状態が続いた末、ソ連邦崩壊によって歴史のクレバスから現れた人たちがいたことは、忘れてはならない「もうひとつの抑留史」といえる。
     民間人としてラーゲリの日々を生き延び、異境で生き抜いた彼らに定まった名称はなく、便宜的に「シベリア民間抑留者」と呼ぶことにしよう。
    苛酷な収容所生活を送った阿彦哲郎さんを主人公にした「阿彦哲郎物語」も、カザフスタンにたった独り強制移住させられた三浦正雄さんの少年力を描いた「ちっちゃいサムライ」も、民間抑留者が辿った戦争と国の分断に翻弄され、棄民として国からも忘れ去られながら、生き抜く意思を燃やし続けた姿を描いた映画である。
     彼らの特異な状況と、なぜ帰国できなかったかについて、概略を述べてみたい。

    苛酷な収容所生活を送った阿彦哲郎さんを主人公にした「阿彦哲郎物語」も、カザフスタンにたった独り強制移住させられた三浦正雄さんの少年力を描いた「ちっちゃいサムライ」も、民間抑留者が辿った戦争と国の分断に翻弄され、棄民として国からも忘れ去られながら、生き抜く意思を燃やし続けた姿を描いた映画である。
     彼らの特異な状況と、なぜ帰国できなかったかについて、概略を述べてみたい。

    「シベリア民間抑留者」の多くは樺太出身であること

     1945年8月9日、樺太に侵攻したソ連軍は、46年2月2日「南サハリン州」を創設し樺太をソ連領に編入。侵攻直後の10日間、婦女子のみの緊急引き揚げが行われたが、以後港は封鎖され、住民は格子なき牢獄と化した樺太に留め置かれることになる。人々はもとの住居に戻り、ソ連に収奪された工場で働きながら、“平時”の暮らしのなかで引き揚げの日を待ち続けた(公的引揚げが始まったのは46年12月)。そのなかでなされた“犯罪行為”により、多くの民間人が逮捕されることになる。

    逮捕された民間人、三つのグループ

     樺太の“犯罪者”はどのように発生したか。逮捕状況により3つのグループに分けられると考えられている。(『南樺太地区未帰還者の全般資料』昭和30年1月1日調製北海道民生部保護課)

    ①元軍人、②軍歴経験のない正真正銘の一般人、③密航者。

    ・元軍人と言っても、武装解除後は樺太内にちらばり、それぞれに仕事を得て一般人として日々を送っていた。だが、すでに軍人ではなかった彼らを、ソ連軍は危険分子として執拗に捜索。見つかり次第逮捕連行した。密告によるものも多かった。阿彦哲郎さんは終戦時青年学校の生徒隊組長であったことを密告され、1949年に逮捕される。

    ・一般人に対しても逮捕連行は日常的に行なわれた、その罪状は無断欠勤、遅刻、運転事故、不可抗力による業務上過失で、行政秩序に反する59条が多く適用された。原因不明のものも相当数あり、正確な数は把握できないという。
    ・樺太脱出の密航は、引揚げ事業が開始される46年12月までの1年4カ月の間、おびただしい数が行われた。樺太在住の家族の安否を確かめるため、北海道から樺太に渡る逆密航も少なくなかった。ソ連当局は監視船を強化し、あらゆる防止の措置を講じて対応し、発覚された者は即逮捕・連行である。三浦正雄さんはわずか13歳の時、樺太にいる父親に会いたいばかりに逆密航のメンバーに加わり、樺太上陸直後に逮捕された。 いずれの場合も逮捕者は昼夜に渡る峻烈な取り調べが行われた後、一方的な裁判で刑が言い渡される。彼らは、囚人として真岡から船に乗せられ、ウラジオストクに上陸、そこからさまざまなラーゲリへ運ばれた。シベリア送りにされた民間人の数は3000人とも4000人ともいわれている。

    民間抑留者が辿った特異な道のり

     収容所での彼らは軍人捕虜同様、過酷な労働を強いられた。軍隊という組織に属していない彼らは一人ひとりが個別に扱われ、宿舎に日本人は自分一人というケースも少なくなかった。ここで命を落とした人も多いことは間違いない。
    生きて刑期満了日を迎えた彼ら(3年くらいの刑期が多かった)は、収容所を出所する。だが日本に帰る解放ではなく、強制移住のための出所である。わずかな食糧と金銭、そして行先を書いた紙が渡されると、シベリアの大地に放り出される。行先には全く未知の地名が記され、非常な苦労をしてそこに辿り着いた彼らは、その土地に定着せざるを得ない。一定区域しか移動できないヴォルチー・パスポトル(狼のパスポート)を持たされ、保護観察処分の身として、その地で生きていく方法を見出していった。そして軍人のような名簿を持たない彼らは軍人を乗せた帰還列車に乗ることはどんなに懇願しても許されず、たった独りの日本人として生きていくのである。
    まだ10代だった三浦正雄さんが、ロシア中部シベリアからカザフスタンに強制移住をさせられ、カザフの人々と心を交わし合うようになるまでを描いた「ちっちゃいサムライ」は、見捨てられたなかでも生きる輝きを発揮させていく少年の命の物語でもある。

    帰った人と帰らなかった人

     1950年4月、日本人捕虜の送還は完了したとのソ連側の一方的な報告により、引揚げ事業は中断される。残った人は戦犯のみとされ、民間抑留者は全く無視されていた。
      日ソ両国赤十字によって、後期引揚げ事業の開始が決定されたのは1953年。後期引揚げは56年12月の最終引揚げまで行われたのだが、もっとも特異であったのは54年3月20日に舞鶴に上陸した第2次引揚げであった。420名の引揚者のほとんどが刑期を終え、一般市民として生きてきた樺太関係者であったのだ。彼らの様相はこれまでの引揚者と異なる“市民”であることに、世間は注目し、驚嘆もした。
    実はここで一つの分断が生じていた。千載一遇の帰国のチャンスが与えられたにかかわらず、民間抑留者のなかには、日本に帰ることを拒否して、ソ連の残留を選択した人がいたのである。残留選択者の多くは、帰る手立てが全くなく、国からも見放されたことへの失望を抱くなかで、ソ連人女性を家庭を持ち、子どもももったという人たちであった。なかには日本に妻子がいる日本版「ひまわり」の人もいた。現地で家庭を持ちながら、日本の妻子のもとに帰った人もいる。どちらも結論を出すまでの葛藤は深く苦しいものがあったことは想像に難くない。国による断絶の悲劇の具象である。
    また、引揚げ情報そのものが届かない辺鄙な土地に住んでいたので、帰還できなかったケースも少なくない。カザフスタンではアルマアタやカラガンダから遠くに住む残留邦人には、引揚げの情報はこなかった、 いずれにせよ、ここで多くの日本人がソ連の各地に残留することになった。

    自己意思残留者という名の忘れられた人たち

     ソ連に残留した多くの邦人は、ソ連国籍を取得していった。だがその主な理由は生活上のさまざまな困難を打開するため、やむを得ず行ったことである。ソ連国籍となり、日本語を忘れてしまっても、彼らは日本に帰る機会が来るのを待ち続け、日本大使館や赤十字などに家族の安否を確かめたり、帰国希望を訴えたりした。書面が無事に着くかどうかは運次第であったが。日本家族との通信も途絶えて安否不明の状態となる。
     日本では消息の分からない残留邦人を「未帰還者」と名付けて、ソ連、中国、南方、北朝鮮を対象に大掛かりな調査を続けた。1959年には「未帰還者に関する特別措置法」が施行され、未帰還者の調査究明は国の責任で行うことが明記。同時に、最新の情報から7年を経ても新たな生存情報が得られない場合は、留守家族の意向を尊重したうえで「戦時死亡宣告」の審判がなされ、知事による除籍が行われることになった。これによって“死者”になった人も多くいた。
     加えて、消息の分かった未帰還者には帰国の意思を確認し、「自己意思残留者」と呼ばれる一群を“創設”していく。ここでの問題は自己意思であるかどうの認定が本人を通じての意思確認によって慎重に行われたとはいいがたく、引揚者による情報などわずかの手がかりから帰国の意思なしと独自に認定されたケースが多数見受けられたということである。
     自己意思残留者となれば、未帰還者名簿からは外れ、以後調査は行われないことになる。戦後処理を急ぐ国は「国際結婚した人で日本に帰る希望を持っている意図は非常に少数」との見解を打ち出し、それを定説にしていく。
     こうして「戦時死亡宣告」と「自己意思残留」の線引きにより、ソ連の各地に生きる残留邦人の存在は忘れ去られていった。(サハリン残留邦人、中国残留邦人に関しても同様である)

    「日本サハリン同胞交流協会」が拓いたシベリア残留邦人帰国への道

    シベリア民間抑留者を独自に調査し、一時帰国につなげていったのが「日本サハリン同胞交流協会」(現・日本サハリン協会)である。戦時死亡宣告や自己意思残留などで不在となった男たちを現地に行って“発掘”し、日本の土を踏ませるという事業をソ連崩壊後2年もたたないうちに本格化させた。もちろん国はシベリア民間抑留者に全く目を向けていないときである。

    経緯から説明しよう。日本サハリン同胞交流協会が発足したのは1989年12月のこと。その時の名称は「樺太(サハリン)同胞一時帰国促進の会」で、発足メンバー6名は全員南樺太出身である。サハリンに戦後残されたままの日本人がいることを知り、何としても生きている間に祖国の土を踏ませようと、一時帰国の実現に向けて活動を開始した。
    サハリンには様々な事情で引揚げができず、戦後その地にとどまり続けている人が数百人単位で存在した。多くは家庭の事情で在サハリンの朝鮮人と結婚した女性である。
    残留邦人たちは日本に住む生き別れになった肉親に一目会いたい、祖国日本の土を踏みたいとの思いを募らせていたが、日本政府においては、サハリンの日本人帰還問題はすでに完了。残っていればそれは「自己意思残留者」なのだからサハリンに支援の必要な日本人はいない、という見解が定着していた。
    協会の果たした最大の功績は、自己意思残留者とされた人々の実態を国に知らしめ、放置してきたことへの責任を国自身が果たすという道を拓いたことにある。
    第一回の集団一時帰国が実現したのは1990年5月2日。12人のサハリン残留邦人が飛行機から降り立った報道が日本中に衝撃を与えたのは、負の歴史と向き合う痛さと厳粛さを鮮明に見せたからだろう。この事業の中心人物が、発足メンバーの一人小川岟一(よういち)氏(1931~2017)で、大泊出身の小川氏は、樺太・シベリア残留邦人の一時帰国、永住帰国事業を自らの後半生の使命として、死去の半月前までその活動から離れることはなかった。

    活動当初、小川氏はシベリアのことは、全く念頭になかったという。それが92年4月に、カンスクという町に自分の義兄が残留邦人として暮らしているという手紙を受け取った時から様相が変わる。シベリアにも残留邦人が存在することに驚愕し、すぐに活動を始め、その年の9月には手紙に書かれていた義兄・佐藤弘氏の一時帰国を実現させる。佐藤弘氏は戦時死亡宣告を受け“死者”となっていた人物の一人であった。
    その弘氏を中心として、「シベリア日本人会」が設立。協会との連携でシベリアの本格調査に取り組むと、忘れ去られ、死者となっていた人が次々に“発見”され、一時帰国で日本の土を踏むという奇跡が展開されていった。

    協会の活動により、一時帰国を果たしたシベリア民間抑留者は約30人、うち永住帰国を果たした人は4人である。彼らの他に調査はしたがすでに死亡、あるいは消息不明のまま追跡不可能になった人々の資料もわかる限り集められている。
    小川氏たちの奮闘がなければ、民間抑留の残留者調査はもっと遅くなり、帰国が間に合わなかった人の数を増やしたことは違いない。いや、調査そのものが行われず、彼らが歴史の暗部から現れることはなかったかもしれない。協会の実績は、国籍への対応も、現実に即した柔軟なものに変えていった。

    カザフスタンの残留邦人・帰国までの物語

    「阿彦哲哲郎物語」「ちっちゃいサムライ」の舞台はいずれもカザフスタンである。
     カザフスタンの残留邦人発見の経緯はシベリアとは異なっている。カザフスタンの扉を開けたのは、この2本の映画の企画・脚本・監督を担った佐野伸寿氏であった。佐野氏がいなければ、日本を見ぬまま人生を終えた在留邦人が何人もいたことは確実である。

     佐野氏がカザフスタン日本大使館に出向することになったのは、94年6月のこと。カザフスタンが独立したのは91年12月で、日本大使館も94年にオープンしたばかりであった。職員は4~5名しかおらず、領事業務の他、外交、経済、文化交流など、1人何役という感じで業務をこなさなければならなかった。
    あるとき、カザフスタンには未帰還邦人がいるということを知り、何とかしなければとの気概を持った。
      カザフスタンに留め置かれていた戦争捕虜は、46年2月~49年8月の段階でほとんどが帰国したが、犯罪者として連れてこられた人は帰国できないままである。
    業務の合間を縫って、日本人がいるという情報のあるところに確かめに向かった。車、バス、飛行機……、あらゆる移動手段を用いて広大なカザフスタンを駆け回り、本人と会い、帰国の意思があることが分かれば「日本サハリン同胞交流協会」につなげて帰国を実願させていった。
     協会の小川氏はこう言う。「佐野さんみたいに動く人いなかったよ。ほかの領事館に捜索を頼みに行ったときは“私たちの職務のなかに入っていません”と言下に断られた。佐野さんは“これは放っておけない”と、職務外のことなのに一生懸命やってくれた。考えられないよ。すごいよ。佐野さんがいなかったら、カザフの人たちは帰ってこれなかったね」
     カザフスタンにはサハリンやシベリアとは異なる新独立国としての事情があったため、入国までの経緯は困難を極めるものだったという。詳しくは佐野氏自身が語っているのでぜひ読んでもらいたい。  佐野氏と同胞交流協会との協働は、まさに歴史の空白をつなげる連携プレイが繰り広げられていたといえる。


     戦争は多くの普通の人々を打ちのめした末に、おびただしい数の忘れ去られる人を生んでいく。後に遺ったものが彼らと再び出会おうとするのは、愚かな争いと理不尽な運命に対する絶対的抗議と再生への祈りの行為であると思う。
    映画「阿彦哲郎物語」と「ちっちゃいサムライ」に込められた、歴史のなかでで引き裂かれたものと出会ったものが織りなす絶望と希望の物語を、歴史のクレバスを下りていく感じで、もう一度見たいと思っている。

    Ⅱカザフスタンの民間人抑留者について

    本2作品監督・脚本 石佐野伸寿
    はじめに

     筆者が1994年6月から1997年5月までの間、在カザフスタン大使館に勤務し、民間人抑留者問題(未帰還邦人問題)を担当していた時に、見聞きし、あるいは実際に自分で行った活動の内容を中心に述べさせていただく。

    1 カザフスタンにいたソ連崩壊後まで生存していた民間人抑留者の概要

    カザフスタンへの一般的な抑留、つまり満州地域での停戦後に送り込まれた旧軍人を中心とした戦争捕虜は、1946年ごろから、カザフスタン各地に送られ、1949年ごろには引揚げ(日本への帰国)が始まり、1954年ぐらいには、カザフスタン地域からは引揚げが完了した。しかし、これは、あくまでも、戦争捕虜の話で、戦争捕虜の名簿に載っていない、いわゆる民間人抑留として、この地に抑留された人々は、この限りではなかった。何人くらい残ったのかも記録があやふやで、しかも、抑留された方々の事情は個別で異なっていた。この人々のうち、強制労働もしくは流刑という形でカザフスタンに送られ、旧ソ連崩壊まで生存し確認できたのは、伊藤実さん、小関義雄さん、阿彦哲郎さん、三浦正雄さんの4人に過ぎなかった。また、民間人抑留者の定義からは外れることになるが、未帰還邦人家族として森さん、松元さんのご家族がいた。

    伊藤さんは樺太で鉄道員として、終戦後もソ連の管理下で働かされ、過酷な勤務状況の中、一瞬居眠りして停止線をオーバーさせて機関車を停止したことが反ソ連活動罪(ソ連刑法59条B項)にあたるとし、コムソモールスカヤ・アムールの収容所に送られ、コルマイなどかなり厳しい収容所を転々としたあと、カザフスタンの地に流刑される。
    小関さんは終戦時、九州の炭鉱で働いていたが、樺太にいた家族が心配で、樺太へ渡り、捕まって、イルクーツクやマリンスクで強制労働をさせられ、伊藤さんと同じように、収容所を出た後はカザフスタンへ、流刑された。
    阿彦さんは、戦後南樺太で、鉄工所に勤務していたが、1949年、戦争から4年も過ぎた時に、終戦時に青年学校の生徒隊の組長であったことを密告され、それが、刑法58条第4条項スパイ罪が適用され、いきなり逮捕、カザフスタンのジェスカズガンにあった政治犯の収容所に送られ強制労働させられる。

    伊藤さんは他の民間抑留の人に多かった刑法59条であったが、阿彦さんは刑法58条スパイ条項が適用された。恐らく、阿彦さんは、鉄工所で働くために居住許可書(プロプスク)をとっていたため、外国人ではなく、ソ連市民として、敵国に協力・内通した疑いで58条が適用され、ソ連人政治犯の収容所へ送られたのではと考える。この居住許可書は、阿彦さんが自分から望んだというよりも、働くために強制され多々ものと考える。地区の行政官の腹ひとつで大きく事態が変わる。阿彦さんはそうした政治犯の強制収容所での過酷な環境によって、廃人になりかけるくらい衰弱し、命が助からないと思われて、同じカラガンダにあったスパスクの療養収容所に送られた、その後1954年にスターリン死亡に伴う恩赦によって収容所を出ることができたが、直ちに流刑として、カラガンダのアクタス村に送られる。 三浦さんは、小関さんと同じように、終戦直後、生き別れた家族を探して樺太に渡り、そこで捕まる。小関さんと違ったのは、三浦さんは13歳の少年だったため、大人の犯罪者ではなく未成年犯罪者と認定されため、刑期終了後は、強制収容所へ送られることなく、カザフスタンへ流刑となった。

    このように、各人それぞれ事情は異なるが、戦争捕虜として扱われた一般的な抑留者と異なるのは、ソ連市民の一般的な犯罪者と同じように、矯正労働という名称の強制労働を課され、刑期終了後は流刑もしくは放逐というような居住制限をお行ない、他の日本人から隔離されて、単独で、中央や海外から目が絶対届かないような僻地に置かれたことだ。しかも、その処置について、年月が経つと、言い換えれば担当していた役人が変わってしまえば、何故流刑になったとか、外国籍であったはずだということが忘れ去られ、元「人民の敵」という称号だけが重くのしかかって、自由を制限されていた。実際に、1953年にスターリンが死に、フルシチョフが政権を担うと1956年(この年の7月くらいから)には、政治犯たちの名誉回復が行われ、流刑だった人たちも自由になった。この時に、民間人抑留者たちも、ある程度生活は自由になったようだが、1964年フルシチョフが失脚すると、ブレジネフの時代になり、自由な雰囲気は失われていく。おそらく、この1956年の<雪解けの時期>に、カザフスタンの民間人抑留者たちは、僻地で情報に乏しく、人によっては家庭を持って一番大変な時期だったりしたため、その時流に乗り損ね、あっという間にブレジネフの逆流の時代に押し流されてしまったのだと思われる。カザフスタンにいた民間人抑留者は1956年以降も警察(内務省、公安委委員会KGB)から監視を受けていたと筆者に語っていた。

    このような状況であったため、これらの人々は、日本政府が行った帰国への意思確認からも漏れてしまい、本人たちはそんな確認があったことすら知らない。ある段階から、日本政府は彼らを帰る意思がない者、あるいは生死が確認できない戦時死亡宣告者として扱うようになり、日本政府が助けなければいけない人々のリストから抜けてしまうことになる。
    こう言った民間人抑留者と戦争捕虜との扱われ方が、極端に違ったのは、原因があった。一般的な抑留者は、犯罪者ではなく日本国籍を認めた戦争捕虜であるのに対し、民間人抑留者はスパイ罪あるいは反ソ連活動罪の罪人として見なされていた点にあった。ソ連国土にいた他の民族と同様、ソ連市民・民族日本人として、その民族の人たちから切り離され、強制労働あるいは隔離されることになる。これは、共産主義体制への各種民族の順応化への方策であった。民間人抑留者は、数が少なかったとはいえ、あまりにも複雑な事情が重なり、全容を把握することは困難であった。そのため、日本政府も戦争捕虜のようにソ連政府と帰国について交渉ができず、一般抑留者の帰国事業が段階的に進んでいったのとは対照的に、民間人抑留者の存在は、次第に、忘れ去られていったのである。

    2 帰国への光 ゴルバチョフの登場

    そんな状況の中で、変化があった。ゴルバチョフの登場だ。1987年に、猟師として活躍していた三浦さんが、日本にも立ち寄るクルーズ船の周遊券を買って、日本へ行く。だが、ソ連国民の外国人への接触については制限をしていた時代であり、お兄さんとも、ソ連船籍のクルーズ船の中、監視の目が光った状態での再会だった。自分の祖国への帰国とはいえない、ギリギリの状態での祖国への接触だった。

    1991年ソ連が崩壊し、カザフスタンもソ連から離脱して独立国となる。それに合わせて、より積極的に商社マンたちが進出し、支店や支社を開くところも出てくる。
    そうした1993年5月、アルマティで、「日本産業見本市」が開催され、アルマティから近いタルガールに住んでいた小関さんが、日本という言葉に導かれ、この見本市に出かけていく。そこで、日ロ貿易協会の寺尾さんと知り合い、寺尾さんは日本に、小関さんの存在を知らせた。これによって、小関さんの日本の親族が小関さんの生存を知り、弟の小関さんが、日本からカザフスタンへ兄を訪ねてやってくることにつながる。 寺尾さんは常駐の商社マンではなかったが、日本人抑留者と日本人商社マンとの交流は繋がっていく、小関さんについてはミシンの販売代理店をやっていた片山さんに受け継がれ、片山さんから豊田通商の清家さんへ、そして、自力で一時帰国を果たした伊藤さんは当時の金商又一の杉山さんと交流を持つ。
    商社の人々は、日本との連絡や、あるいは、自宅に招いて、日本から持ってきた日本食をご馳走したり、支援していこうという気運が強く、暖かい交流が続いた。伊藤さんは杉山さんとの交流で、日本語を完全に思い出していた。

    この動きは 日本政府にも良い影響を与える。在カザフスタン大使の松井啓大使と現在、在ベラルーシ大使として活躍している当時の徳永次席が積極的に動いた。まず、日本から兄を訪ねてカザフスタンへやってきた小関進さんと会い、小関さんの一時帰国支援の一歩として、小関さんの情報を日本の外務省本省に照会をかけ、外務省本省も直ちに当時の厚生省社会・援護局へ情報提供する。かつて、現存する抑留者は、自己責任で残ったのだから、日本政府は関知しないと言った態度から大きく変わっていた。
    当然のことだが、この変化は、こうしたカザフスタン現地での変化だけが原因ではない。ソ連崩壊直前くらいから活動していた小川岟一さんと日本サハリン同胞交流協会(現日本サハリン協会)の奮闘が、民間人抑留者への帰国支援への道をすでに開き始めていた。当時、ソ連国籍の人を個人で日本へ招待をすることはほぼ不可能に近かった。特に帰国費用については、大変だった。遠く離れたソ連からの帰国には多額の費用がかかる。未帰還邦人(日本政府は抑留者という言葉を使わず、未帰還邦人という言葉を使った)の帰国支援事業を厚生省は日本サハリン同胞交流協会に委託した。同協会は日本側の受け入れ基盤となり、厚生省に少しずつ粘り強い交渉を重ね、支援額を増やし、ついには往復旅費の支援のめどが経つに至った。帰国支援はボランティ的な段階から制度的な支援態勢(厚生省の委託事業として)へと進化していったのだ。
    しかし、これで、簡単に帰れるようになったわけではない。小関さんは1993年の12月、一時帰国を果たしたが、進さんの訪問から、実に半年も時間がかかった。一時帰国までに時間がかかったのは、抑留者の帰国に、最後の難関が待ち受けていたからだ。それは国籍、旅券(パスポート)、そして査証(ビザ)の問題だった。私がカザフスタン大使館で、領事業務も自分の所掌としていたので、自分が実際に勤務したことを踏まえて記す。

    抑留者をどういう形で日本へ入国させるかが問題だったのだ。戦後多くのドイツ人(以前から移り住んできたドイツ人に加え、210万人が捕虜として連れてこられた)がソ連領内に残った。ドイツの場合、ドイツ人であるという証明(多くはソ連の身分証明書には民族欄があり、そこに、ドイツ人であれば民族ドイツ人と書かれている)を現地ドイツ大使館に持っていけば、その場で、ドイツの旅券を発行し、希望の日時の航空券を手配した(カザフスタンにはドイツの航空会社ルフトハンザが週3便も定期便を飛ばしている)。では、日本の場合はどうかといえば、全く状況は違った。旅券の発行には、旅券紛失や、有効期限の終了間近な場合など、あるいは有効な旅券の査証欄が一杯になったなどの理由で、旅券を発行することが大使館の業務としてあるが、それは、当然日本国籍を有する人が対象だ。抑留者のように、行方不明状態で、戦時死亡宣告が行われ、日本国籍が失効してしまった人間、つまり、日本国民であることが有効な文書等で証明できない人には、日本国内での旅券申請と同様、大使館の権限だからと言って旅券を発行できない。
    おそらく幾重にも待ち構えているハードルを一つ一つ超えていけば、不可能ではないのかもしれないが、気が遠くなる時間が必要だ。抑留者の多くは高齢者だ。長い時間をかけている余裕はない。より可能性の高いのは、旧ソ連諸国人として一旦日本に入国させることだ。この方が断然早い。それでも困難なことは変わりがない。当時、日本は旧ソ連諸国の国籍を有する方の入国には非常に慎重だった。入国するための査証を取得するためには、日本国内の招待者がいなければならず、その招待者は入国希望者の身元保証をし、招待者が、被招待の身元を保証し、事前に提出した行動予定と異なる行動をさせずに、予定の期日で、旧ソ連諸国に帰国させる経済力や社会的地位を持っていなければ招待者にはなれず、しかも、申請してから、手続きに1ヶ月以上かかることもざらだった。
    査証の発給業務は、日本人抑留者以外の、例えば商社の人が商談で、カウンターパートを呼ぶときも大変だった。つまり、日本人抑留者は一般の旧ソ連諸国人として入国するので、手続きも同様だったという訳だ。しかし、今回、この文書を書くにあたり、いろいろな人に見てもらって意見を求めたが、ソ連時代から行われていたサハリン残留韓国人の日本への入国はもう少し簡単だったと指摘を受けた。はっきり言えることは、カザフスタンにいた民間人抑留者にはその枠組みは適用されていないし、していない。とにかく査証手続きは大変だった。だが、大変でも、民間人抑留者を帰国させる方法としては、最良の方法であったのは間違いない。

    だが、今度はカザフスタン側に問題があった、旧ソ連では、国外に出国するとき、出国許可を治安機関(内務省・KGB)から受けなければならなかった。独立当時、カザフスタンが国家としてソ連から独立しても、治安組織は旧態依然の状態で、簡単に、元「人民の敵」に出国許可を与えることはなかった。抑留者がいくら抗議しても、日本に帰国するなら、ドイツのように日本の大使館に日本国の旅券を発行して貰うのが筋だと言い張った。日本へ永住帰国する人間に、帰ってくることが前提の出国許可を与えることの方がおかしいということだ。小関さんの帰国が遅れたのはまさにこの状態が続いたためだ。だが、転機が訪れる。1994年ナゼルバーエフ大統領が初めて日本を公式実務訪問した時のことだ。細川護煕首相との会談時、ナゼルバーエフ大統領は、何の前触れもなく(事務方の事前調整なしに)、「記憶の書(アルダナザーロフ大佐という戦史研究家が書いた日本人抑留者に関する研究書)」という1冊の書籍をとりだし、カザフスタンにかつて抑留されていた日本人抑留者問題について話し出したのである。事務方は経済協力を中心に話し合うつもりでいたので驚いたが、事前ブリーフィングで抑留者問題について全く聞いていなかった細川首相も何を言っているのか理解できない状態だった。だが、ナゼルバーエフ大統領は日本・カザフスタン友好関係の礎は、カザフスタンにいた日本人抑留者とカザフ人たちとの交流にあり、遺骨収集問題を含め、カザフスタン政府は日本人抑留者問題の解決を積極的に支援すると宣言した(この時、ナゼルバーエフの熱弁に対し、細川首相は、近々首相を辞意する意向であることを言い出して、逆にナゼルバーエフを驚かした)。
    この時、筆者は在カザフスタン大使館赴任前ということで、この公式実務訪問の受け入れ業務に関わっていた。日本カザフスタン首脳会談後、アフメートフ大統領府儀典長(大統領側近として首脳会談(会談内容)を取り仕切っていた人物)に筆者が呼ばれ、儀典長から大統領が細川首相に見せた「記憶の書」を渡される。そこで初めて、この儀典長から、まだ、カザフスタンに日本人の元抑留者が生存していることを聞かされた。
    20年も昔の昭和の頃(昭和49年)に、小野田さんが発見された話はあったが、戦後50年近くが過ぎた平成の世に、未だ、帰国できない人たちがいることに驚かされ、なんとかしなければいけないという思いが胸を熱くした。

    それから、筆者は大使館に赴任し、抑留者問題の担当になった。赴任して3日目に、大使館へ小関さんの長女ガーリャから電話があった。小関さんは前の年の12月に一時帰国し、ようやく永住帰国しようと気持ちを固めているところだった。
    筆者は当初彼女の言いたいことが分からず、会って話をしようということになり、親身に支援してくれていた豊田通商の清家さんの事務所で対面した。そこで、ガーリャから小関さんに対する出国許可が発行されていないため、このままでは日本に永住帰国ができなくなる可能性が高い。自分たちの力ではどうすることもできないと、途方に暮れていた。筆者のような大使館員が地域の内務省事務所と折衝をしようとしても、話が通じないのは明らかだった。地域の内務省(KGB)が外国大使館の話を聞いてくれるわけがない。
    翌日、大統領訪日時の顛末を思い出し、大統領府にアフメトフ儀典長を訪ねた。儀典長に小関さんのことを話し、抑留者問題解決に向けて大統領が支援を積極的に進めると言っても、中々末端組織までは話が通じないのではないかと言ってみた。アフメトフ儀典長は普通の官僚にはない迫力のある眼光を光らせると、無言で部屋を出ていき、数分後に戻ってきて、大統領が言ったことは国家としての方針だ。齟齬はない。日本人抑留者の件は何も問題ないと筆者に言った。筆者は半信半疑であったが、数日後、ガーリャから小関さんの出国許可が突然与えられたという。小関さんは、こう言った経緯により、翌月の1997年7月に永住帰国をするためにカザフスタンを出発し日本へ旅だった。以後、日本人抑留者への旅券や出国許可は、政府関係者並みに迅速に対応してくれるようになった。
    こうした小関さんの帰国を通して得た経験は、阿彦さんの一時帰国へつながる。阿彦さんは、日本大使館がカザフスタンのアルマティに開設したことを知ると、生き別れた家族の消息を知りたいと、大使館に自ら赴き、日本サハリン同胞交流協会の支援を受けて一時帰国への道が広がった。小関さんの永住帰国の時期に近かったためか、出国許可も問題なく与えられた。
    抑留者の問題は一時帰国だけでは終わらない。小川さんたち日本サハリン同胞交流協会はさらに奮闘し、帰国後直ちに戦時死亡宣告取り消し手続きを行えるようにして日本国籍復活の道を開き、帰国支援も、一回きりの帰国支援から、再度、日本へ何度でも帰国できるように厚生省と交渉してくれた。こう言った働きによって、一時帰国してすぐに永住帰国しなければならないということではく、複数回の一時帰国を重ねて、スムーズに永住帰国することも可能になった。永住帰国の際は、中国残留者の帰国支援のスキームを使い、定住化促進の制度を使うこともできた。また、定住する自治体、とりわけ、戦前の樺太庁の業務を受け継いだ北海道庁が、積極的に支援を行い、永住帰国後の定住の問題も、困難さが薄らいでいった。
    抑留者の帰国支援がスムーズに行われ、抑留者の帰国へのハードルが低くなったのは間違いない。そういう状況になったのだから、カザフスタンに、他にもいると思われる抑留者に、現在の状況を知らせて、帰国の道を開く必要がある。こう言った状況を知らないで、祖国への帰国を諦める人がいたとしたら、それはあまりにも不幸な話だ。筆者が赴任した1994年は戦後49年、抑留者の人々が、もし生きていたら、高齢者になっているのは確実だ。当時の旧ソ連人の実際の平均寿命は50歳台後半と言われていた。急がねばならなかった。日本サハリン同胞交流協会の小川さんとも連携して探そうと思ったが、やはり、生存していたらしい方々の大半が、亡くなっていたり、行方が分からなかったりしていて、探し出すことは不可能だった。
    そんな状況の中、大使館のあったアルマティから300kmくらい離れたバカナスに日本人がいるという噂があった。抑留者の一人、伊藤さんは以前、三浦さんという人がいたはずだという。筆者は、休みの日に車をチャーターし、噂になっていたバカナスへ行ってみることにした。伊藤さんも同行してくれることになった。バカナスは比較的大きな村落(今は、地域の中心的な町に発展している)で、簡単には探せないだろうと思い、手がかりでも見つけられれば幸いぐらいの気持ちで向かった。

    片道6時間以上かけてバカナスに辿り着いた。三浦さんが住んでいるのは、バカナス近くのウシジャルマ村(この一帯を、ひっくるめてバカナスと呼んでいる)。その村に入ってすぐの、街道沿いにいた村人に、このあたりに日本人が住んでいるという噂があるが、知りませんかと尋ねてみると、村人は、それはサムライ三浦のことだと答え、家まで丁寧に案内してくれた。そこで三浦さんとお会いした。三浦さんの話によると、三浦さんは、かつてクルーズ船の周遊券を買って日本に行き、お兄さんに会うことができたが、それが最後だと思っていたという。4年くらい前に日本人の新聞記者という人が訪ねてきて、三浦さんを取材したことがあった。三浦さんは、日本の親族に自分が無事であることを伝えて欲しいと思い、写真と自分の住所を記者に託した。しかし、その後、その記者は三浦さんの日本の家族と会えなかったのか、三浦さんの現状は日本の家族には伝わっておらず、日本の家族との連絡もできるようになることはなかった。三浦さんは、2・3年待ったが、そのうち日本へ再び行くのを諦めたという。私は、三浦さんに、その時の抑留者問題を取り巻く状況を話し、日本への帰国は、しっかりした支援体制があるので、不可能ではないことを伝えた。三浦さんは、一度は諦めたものの、日本へもう一度、帰国したいという強い思いがあったので、私の言葉を信用してくれた。アルマティに戻るとすぐに、その時の三浦さんの現状を日本サハリン同胞交流協会の小川さんに伝えた。三浦さんの家には電話があったので、連絡を取り合い、帰国手続きを進めることができた。そのため非常に早く、三浦さんの一時帰国が具体化し、1995年6月に待望の「正式な一時帰国」を果たすことができた。

    3 ソ連崩壊による状況の劇的変化

    1991年ソ連が崩壊し、カザフスタンもソ連から離脱して独立国となる。それに合わせて、より積極的に商社マンたちが進出し、支店や支社を開くところも出てくる。
    そうした1993年5月、アルマティで、「日本産業見本市」が開催され、アルマティから近いタルガールに住んでいた小関さんが、日本という言葉に導かれ、この見本市に出かけていく。そこで、日ロ貿易協会の寺尾さんと知り合い、寺尾さんは日本に、小関さんの存在を知らせた。これによって、小関さんの日本の親族が小関さんの生存を知り、弟の小関さんが、日本からカザフスタンへ兄を訪ねてやってくることにつながる。 寺尾さんは常駐の商社マンではなかったが、日本人抑留者と日本人商社マンとの交流は繋がっていく、小関さんについてはミシンの販売代理店をやっていた片山さんに受け継がれ、片山さんから豊田通商の清家さんへ、そして、自力で一時帰国を果たした伊藤さんは当時の金商又一の杉山さんと交流を持つ。
    商社の人々は、日本との連絡や、あるいは、自宅に招いて、日本から持ってきた日本食をご馳走したり、支援していこうという気運が強く、暖かい交流が続いた。伊藤さんは杉山さんとの交流で、日本語を完全に思い出していた。

    この動きは 日本政府にも良い影響を与える。在カザフスタン大使の松井啓大使と現在、在ベラルーシ大使として活躍している当時の徳永次席が積極的に動いた。まず、日本から兄を訪ねてカザフスタンへやってきた小関進さんと会い、小関さんの一時帰国支援の一歩として、小関さんの情報を日本の外務省本省に照会をかけ、外務省本省も直ちに当時の厚生省社会・援護局へ情報提供する。かつて、現存する抑留者は、自己責任で残ったのだから、日本政府は関知しないと言った態度から大きく変わっていた。
    当然のことだが、この変化は、こうしたカザフスタン現地での変化だけが原因ではない。ソ連崩壊直前くらいから活動していた小川岟一さんと日本サハリン同胞交流協会(現日本サハリン協会)の奮闘が、民間人抑留者への帰国支援への道をすでに開き始めていた。当時、ソ連国籍の人を個人で日本へ招待をすることはほぼ不可能に近かった。特に帰国費用については、大変だった。遠く離れたソ連からの帰国には多額の費用がかかる。未帰還邦人(日本政府は抑留者という言葉を使わず、未帰還邦人という言葉を使った)の帰国支援事業を厚生省は日本サハリン同胞交流協会に委託した。同協会は日本側の受け入れ基盤となり、厚生省に少しずつ粘り強い交渉を重ね、支援額を増やし、ついには往復旅費の支援のめどが経つに至った。帰国支援はボランティ的な段階から制度的な支援態勢(厚生省の委託事業として)へと進化していったのだ。
    しかし、これで、簡単に帰れるようになったわけではない。小関さんは1993年の12月、一時帰国を果たしたが、進さんの訪問から、実に半年も時間がかかった。一時帰国までに時間がかかったのは、抑留者の帰国に、最後の難関が待ち受けていたからだ。それは国籍、旅券(パスポート)、そして査証(ビザ)の問題だった。私がカザフスタン大使館で、領事業務も自分の所掌としていたので、自分が実際に勤務したことを踏まえて記す。

    抑留者をどういう形で日本へ入国させるかが問題だったのだ。戦後多くのドイツ人(以前から移り住んできたドイツ人に加え、210万人が捕虜として連れてこられた)がソ連領内に残った。ドイツの場合、ドイツ人であるという証明(多くはソ連の身分証明書には民族欄があり、そこに、ドイツ人であれば民族ドイツ人と書かれている)を現地ドイツ大使館に持っていけば、その場で、ドイツの旅券を発行し、希望の日時の航空券を手配した(カザフスタンにはドイツの航空会社ルフトハンザが週3便も定期便を飛ばしている)。では、日本の場合はどうかといえば、全く状況は違った。旅券の発行には、旅券紛失や、有効期限の終了間近な場合など、あるいは有効な旅券の査証欄が一杯になったなどの理由で、旅券を発行することが大使館の業務としてあるが、それは、当然日本国籍を有する人が対象だ。抑留者のように、行方不明状態で、戦時死亡宣告が行われ、日本国籍が失効してしまった人間、つまり、日本国民であることが有効な文書等で証明できない人には、日本国内での旅券申請と同様、大使館の権限だからと言って旅券を発行できない。
    おそらく幾重にも待ち構えているハードルを一つ一つ超えていけば、不可能ではないのかもしれないが、気が遠くなる時間が必要だ。抑留者の多くは高齢者だ。長い時間をかけている余裕はない。より可能性の高いのは、旧ソ連諸国人として一旦日本に入国させることだ。この方が断然早い。それでも困難なことは変わりがない。当時、日本は旧ソ連諸国の国籍を有する方の入国には非常に慎重だった。入国するための査証を取得するためには、日本国内の招待者がいなければならず、その招待者は入国希望者の身元保証をし、招待者が、被招待の身元を保証し、事前に提出した行動予定と異なる行動をさせずに、予定の期日で、旧ソ連諸国に帰国させる経済力や社会的地位を持っていなければ招待者にはなれず、しかも、申請してから、手続きに1ヶ月以上かかることもざらだった。 査証の発給業務は、日本人抑留者以外の、例えば商社の人が商談で、カウンターパートを呼ぶときも大変だった。つまり、日本人抑留者は一般の旧ソ連諸国人として入国するので、手続きも同様だったという訳だ。しかし、今回、この文書を書くにあたり、いろいろな人に見てもらって意見を求めたが、ソ連時代から行われていたサハリン残留韓国人の日本への入国はもう少し簡単だったと指摘を受けた。はっきり言えることは、カザフスタンにいた民間人抑留者にはその枠組みは適用されていないし、していない。とにかく査証手続きは大変だった。だが、大変でも、民間人抑留者を帰国させる方法としては、最良の方法であったのは間違いない。

    だが、今度はカザフスタン側に問題があった、旧ソ連では、国外に出国するとき、出国許可を治安機関(内務省・KGB)から受けなければならなかった。独立当時、カザフスタンが国家としてソ連から独立しても、治安組織は旧態依然の状態で、簡単に、元「人民の敵」に出国許可を与えることはなかった。抑留者がいくら抗議しても、日本に帰国するなら、ドイツのように日本の大使館に日本国の旅券を発行して貰うのが筋だと言い張った。日本へ永住帰国する人間に、帰ってくることが前提の出国許可を与えることの方がおかしいということだ。小関さんの帰国が遅れたのはまさにこの状態が続いたためだ。だが、転機が訪れる。1994年ナゼルバーエフ大統領が初めて日本を公式実務訪問した時のことだ。細川護煕首相との会談時、ナゼルバーエフ大統領は、何の前触れもなく(事務方の事前調整なしに)、「記憶の書(アルダナザーロフ大佐という戦史研究家が書いた日本人抑留者に関する研究書)」という1冊の書籍をとりだし、カザフスタンにかつて抑留されていた日本人抑留者問題について話し出したのである。事務方は経済協力を中心に話し合うつもりでいたので驚いたが、事前ブリーフィングで抑留者問題について全く聞いていなかった細川首相も何を言っているのか理解できない状態だった。だが、ナゼルバーエフ大統領は日本・カザフスタン友好関係の礎は、カザフスタンにいた日本人抑留者とカザフ人たちとの交流にあり、遺骨収集問題を含め、カザフスタン政府は日本人抑留者問題の解決を積極的に支援すると宣言した(この時、ナゼルバーエフの熱弁に対し、細川首相は、近々首相を辞意する意向であることを言い出して、逆にナゼルバーエフを驚かした)。
    この時、筆者は在カザフスタン大使館赴任前ということで、この公式実務訪問の受け入れ業務に関わっていた。日本カザフスタン首脳会談後、アフメートフ大統領府儀典長(大統領側近として首脳会談(会談内容)を取り仕切っていた人物)に筆者が呼ばれ、儀典長から大統領が細川首相に見せた「記憶の書」を渡される。そこで初めて、この儀典長から、まだ、カザフスタンに日本人の元抑留者が生存していることを聞かされた。20年も昔の昭和の頃(昭和49年)に、小野田さんが発見された話はあったが、戦後50年近くが過ぎた平成の世に、未だ、帰国できない人たちがいることに驚かされ、なんとかしなければいけないという思いが胸を熱くした。

    それから、筆者は大使館に赴任し、抑留者問題の担当になった。赴任して3日目に、大使館へ小関さんの長女ガーリャから電話があった。小関さんは前の年の12月に一時帰国し、ようやく永住帰国しようと気持ちを固めているところだった。
    筆者は当初彼女の言いたいことが分からず、会って話をしようということになり、親身に支援してくれていた豊田通商の清家さんの事務所で対面した。そこで、ガーリャから小関さんに対する出国許可が発行されていないため、このままでは日本に永住帰国ができなくなる可能性が高い。自分たちの力ではどうすることもできないと、途方に暮れていた。筆者のような大使館員が地域の内務省事務所と折衝をしようとしても、話が通じないのは明らかだった。地域の内務省(KGB)が外国大使館の話を聞いてくれるわけがない。
    翌日、大統領訪日時の顛末を思い出し、大統領府にアフメトフ儀典長を訪ねた。儀典長に小関さんのことを話し、抑留者問題解決に向けて大統領が支援を積極的に進めると言っても、中々末端組織までは話が通じないのではないかと言ってみた。アフメトフ儀典長は普通の官僚にはない迫力のある眼光を光らせると、無言で部屋を出ていき、数分後に戻ってきて、大統領が言ったことは国家としての方針だ。齟齬はない。日本人抑留者の件は何も問題ないと筆者に言った。筆者は半信半疑であったが、数日後、ガーリャから小関さんの出国許可が突然与えられたという。小関さんは、こう言った経緯により、翌月の1997年7月に永住帰国をするためにカザフスタンを出発し日本へ旅だった。以後、日本人抑留者への旅券や出国許可は、政府関係者並みに迅速に対応してくれるようになった。
    こうした小関さんの帰国を通して得た経験は、阿彦さんの一時帰国へつながる。阿彦さんは、日本大使館がカザフスタンのアルマティに開設したことを知ると、生き別れた家族の消息を知りたいと、大使館に自ら赴き、日本サハリン同胞交流協会の支援を受けて一時帰国への道が広がった。小関さんの永住帰国の時期に近かったためか、出国許可も問題なく与えられた。
    抑留者の問題は一時帰国だけでは終わらない。小川さんたち日本サハリン同胞交流協会はさらに奮闘し、帰国後直ちに戦時死亡宣告取り消し手続きを行えるようにして日本国籍復活の道を開き、帰国支援も、一回きりの帰国支援から、再度、日本へ何度でも帰国できるように厚生省と交渉してくれた。こう言った働きによって、一時帰国してすぐに永住帰国しなければならないということではく、複数回の一時帰国を重ねて、スムーズに永住帰国することも可能になった。永住帰国の際は、中国残留者の帰国支援のスキームを使い、定住化促進の制度を使うこともできた。また、定住する自治体、とりわけ、戦前の樺太庁の業務を受け継いだ北海道庁が、積極的に支援を行い、永住帰国後の定住の問題も、困難さが薄らいでいった。

    抑留者の帰国支援がスムーズに行われ、抑留者の帰国へのハードルが低くなったのは間違いない。そういう状況になったのだから、カザフスタンに、他にもいると思われる抑留者に、現在の状況を知らせて、帰国の道を開く必要がある。こう言った状況を知らないで、祖国への帰国を諦める人がいたとしたら、それはあまりにも不幸な話だ。筆者が赴任した1994年は戦後49年、抑留者の人々が、もし生きていたら、高齢者になっているのは確実だ。当時の旧ソ連人の実際の平均寿命は50歳台後半と言われていた。急がねばならなかった。日本サハリン同胞交流協会の小川さんとも連携して探そうと思ったが、やはり、生存していたらしい方々の大半が、亡くなっていたり、行方が分からなかったりしていて、探し出すことは不可能だった。
    そんな状況の中、大使館のあったアルマティから300kmくらい離れたバカナスに日本人がいるという噂があった。抑留者の一人、伊藤さんは以前、三浦さんという人がいたはずだという。筆者は、休みの日に車をチャーターし、噂になっていたバカナスへ行ってみることにした。伊藤さんも同行してくれることになった。バカナスは比較的大きな村落(今は、地域の中心的な町に発展している)で、簡単には探せないだろうと思い、手がかりでも見つけられれば幸いぐらいの気持ちで向かった。

    片道6時間以上かけてバカナスに辿り着いた。三浦さんが住んでいるのは、バカナス近くのウシジャルマ村(この一帯を、ひっくるめてバカナスと呼んでいる)。その村に入ってすぐの、街道沿いにいた村人に、このあたりに日本人が住んでいるという噂があるが、知りませんかと尋ねてみると、村人は、それはサムライ三浦のことだと答え、家まで丁寧に案内してくれた。そこで三浦さんとお会いした。三浦さんの話によると、三浦さんは、かつてクルーズ船の周遊券を買って日本に行き、お兄さんに会うことができたが、それが最後だと思っていたという。4年くらい前に日本人の新聞記者という人が訪ねてきて、三浦さんを取材したことがあった。三浦さんは、日本の親族に自分が無事であることを伝えて欲しいと思い、写真と自分の住所を記者に託した。しかし、その後、その記者は三浦さんの日本の家族と会えなかったのか、三浦さんの現状は日本の家族には伝わっておらず、日本の家族との連絡もできるようになることはなかった。三浦さんは、2・3年待ったが、そのうち日本へ再び行くのを諦めたという。私は、三浦さんに、その時の抑留者問題を取り巻く状況を話し、日本への帰国は、しっかりした支援体制があるので、不可能ではないことを伝えた。三浦さんは、一度は諦めたものの、日本へもう一度、帰国したいという強い思いがあったので、私の言葉を信用してくれた。アルマティに戻るとすぐに、その時の三浦さんの現状を日本サハリン同胞交流協会の小川さんに伝えた。三浦さんの家には電話があったので、連絡を取り合い、帰国手続きを進めることができた。そのため非常に早く、三浦さんの一時帰国が具体化し、1995年6月に待望の「正式な一時帰国」を果たすことができた。

    4 永住帰国まで

     小関さんは2回目の一時帰国時に、そのまま永住帰国(一旦一時帰国ということで入国して永住帰国手続きをしないといけなかった)し、千葉県に移り住んだ。小関さんは2007年に亡くなっている。

    伊藤さんは、1995年三浦さんの一時帰国に合わせ、2度目の一時帰国を行った後1997年に転機が訪れる。カザフスタンは独立直後から経済状況が悪くなり、伊藤さんのいたウズナガチは、都市部以上に経済的に疲弊していった。そんな状況の中で、子供達がドイツに行くことを決心する。伊藤さんの子供たちは、母親がドイツ人であったため、ドイツ国籍を取得することが可能だった。しかもドイツでは、ドイツ入国後の仕事や生活を保障していて、さらに、ドイツに住んでいても、旧ソ連からの移住者が多く、ロシア語でも生活ができる。そのため、ウズナガチは、ドイツ系住民が多かったため、村ごとドイツへ移住する勢いで、伊藤さんの近隣の人がドイツへ移っていった。そのため、子供たちはドイツへ行こうと考えたのだ。子供たちは、伊藤さんもドイツへ連れて行こうと意考えていた(この時点では、伊藤さんのような人にドイツ国籍は与えられず、外国人としてドイツに暮らすという条件だったが、現在では、ドイツ国民の親族としてドイツ国籍取得が可能になっている)が、伊藤さんは、ドイツに行くことが日本との距離を大きくすることになると考え、子供たちがドイツへ行く時期に、伊藤さんだけ一人で日本へ永住帰国することを決心する。そして1997年に、伊藤さんは、永住帰国を果たす。日本からカザフスタンへ行くのは大変だが、日本からドイツに行くのは、そこまで大変ではない。ドイツと日本とは査証免除協定があり、いつでも行き来できた。実際、伊藤さんがドイツへ行くことも、あるいは、子供たちが日本へ来ることも頻繁に行われた。伊藤さんは2019年に札幌で亡くなった。

    三浦さんは、妻のニーナさんが心臓を患い、カザフスタンの病院では完治できないのではないかと心配になり、小川さんの助言もあり、永住帰国を考えるようになった。三浦さんは、まず、2001年に2回目の一時帰国をして、永住帰国の可能性を探り、その翌年2002年に永住帰国を果たす。三浦さんは、妻のニーナさんと、長男の幸雄さん家族、合計五人での日本への帰国だったが、帰国後、幸雄さんに長男が誕生し、6人家族となり、三浦さん家族は、しっかりと地に足のついた生活を続けていた。三浦さんは家族に囲まれながら、楽しく晩年の生活を送り、2022年1月に札幌で亡くなる。 阿彦さんは何回か一時帰国を行い、阿彦さんの妻の希望で2012年に永住帰国を果たす。だが、希望して日本へやってきた妻が、日本に住むことに耐えることができなくなり、妻に請われる形で、2014年、カザフスタンに戻ることになった。阿彦さんには大きな葛藤があったが、妻だけカザフに返して、一人だけ日本に残るという選択はできなかった。そばに住んでいた伊藤さんが、一人でも日本なら生活できると説得してみたが、阿彦さんは、結局、妻の意思を尊重した。だが、祖国の日本を離れることが心労的大きな負担となり、カザフへ戻ってからは、体調を崩しがちになった。カザフスタンは帰ってきた阿彦さんを国家功労者にして、本来少なかった年金を、大学教授等名誉ある人にしか与えられない最高等級の年金支給額に引き上げ、医療面でもバックアップしてくれた。だが、阿彦さんの体調は衰弱していく一方だった。2020年6月、阿彦さんはカザフの地で永眠した。残された家族の話では、最後の頃、阿彦さんは日本語しか話さなくなり、意思疎通ができなくなっていたという。

    おわりに

     抑留者の帰国には多くの人が関わっている。帰国までの道のりでは、人数がもともと少なかったこともあるが、抗議行動や政府批判などのラジカルな活動を行われることはなかった。小川さんのような人も、それから政府の中で、それぞれの立場で業務を担当した人も、皆それぞれの立場で、できる範囲の中で創意工夫をし、あるいは前例を拡大解釈しながら、穏便に帰国への道を開いていった。それは、この問題を静かに解決する必要があったからだ。カザフスタンで生存していた抑留者は、戦後ソ連崩壊までの長い時間、しかも、カザフスタンという遠く離れた陸の孤島で、それぞれの抑留者が困難に耐えながら、それぞれが家族を作り、それぞれのささやかな生活を営んでいた。苦労した抑留者が不幸になってはならない。そのためには、抑留者の意思を大事にし、同時に抑留者が築いてきたカザフでのささやかな生活を守りながら、支援を進める必要がある。今から考えると、帰国支援は上手くいったと思える。阿彦さんを除く、全ての人が、自然と現代の日本の中に溶け込み、それぞれの日本での生活を営むことができたからだ。それは、まるで、彼らの大変な苦労などなかったかのように静かに、上手く溶け込んでいる。しかし、それで良かったのだろうか、私は時より考えることがある。阿彦さんが、当時の妻の意向で日本を離れ再びカザフスタンに帰る前日に見せた、一点を虚な目で見つめ残っていた最後の日本酒を飲んでいる表情を見た時、日本人は、このまま、阿彦さんのような人々をまるでいなかったかのように忘れ去っていいのだろうかと思い始める。日本にいる阿彦さんの親族に阿彦さんがどういう特殊な状況で、生き延び、家族を持ち、夢にまでみた永住帰国を捨てて、カザフに帰らざるを得なかった状況や彼の思いを伝える必要があるのではないか。あるいは、2022年1月に亡くなった三浦さんのように、大変な境遇の中で、カザフスタンの人たちに助けられ友情を育んだことを、忘れ去っていいのだろうか?平和の中で暮らす現代日本の人々が次の時代も平和の中で生き抜いていくためにも、彼らの人生を知ってもらいたいと筆者は思うようになった。

    2

    『阿彦哲郎物語』解説 本作品の国際政治学的分析

    東京大学 大学院総合文化研究科 岡田晃枝

     映画の主な舞台となっているジェズガズガンおよびスパスクは、1991年のソ連解体にともなって独立したカザフスタン共和国のカラガンダ州にある。カザフスタンという国名を聞いても多くの日本人はあまりピンとこないかもしれない。宇宙人飛行士も飛び立ったバイコヌール宇宙基地(ロシアが租借中)、かつては世界第4位の湖面面積を持ちつつ消滅の危機にあるアラル海、あるいはソ連最大の核実験場セミパラチンスクなどの固有名詞には反応する方々がいらっしゃるだろう。  カザフスタン共和国は、北にロシア、東に中国と接する位置にある。世界第9位、日本の約7倍の面積に、日本の7分の一強の人口が住む。カザフ人のほか、ロシア人やウズベク人をはじめ、100以上の民族から構成される多民族国家であり、カザフスタンは多民族が友好的に共存している国であることを誇りとしてきた。その在住民族の一つが日本民族であり、その証左であり代表であったのがこの映画の主人公、阿彦哲郎さんだ。

    カザフスタンは石油、天然ガス、石炭、ウランといったエネルギー資源のほか、レアメタル、レアアースを含む鉱物資源を豊富に擁している。阿彦さんが重労働を強いられたジェズカズガンには銅鉱山があり、ソ連時代には阿彦さんのように多くの囚人がそこで働かされていた。豊富な資源をもとに、カザフスタン経済は中央アジア5カ国の中では群を抜き、一人当たりGDPではキルギスやタジキスタンの10倍にものぼる。旧ソ連の多くの国々が世界から「ロシアの属国」に近い扱いをされることを避ける道を模索する中、早くからエネルギー産業中心に欧米や日本企業の進出や投資に門戸を開き、油価が高騰した1990年代末から飛躍的に発展したカザフスタンは、その経済力を自信に代え、2010年には欧州安全保障協力機構(OSCE)議長国、2017-18年には国連安保理非常任理事国を務めるなど、国際的な場でのプレゼンスを築くことをその一つの手段とした。全方位外交を展開し、「ロシアの後ろに隠れている国」から脱却したカザフスタンであるが、それでも政治体制の民主化の進展状況なども絡んで、欧米からは「ロシア寄り」か「欧米寄り」かといった二者択一の見方がされる。ロシアからは「欧米寄り」かどうかに加え、上海協力機構などを舞台に「中国寄り」かどうかというものさしも突き付けられる。そのような状況下で、政治的な野心が薄く、経済発展を支えるけれど経済的に当該地域を飲み込む恐れがなく、カザフスタンにとって自分が三番手以下であっても怒らず、民主主義陣営に属している先進国である日本は、ロシア・中国・欧米といった強力なアクターのどれからも過度な反発を受けることなく支援や協力を頼める存在だ。初代大統領であり、この映画の制作を要請したヌルスルタン・ナザルバエフ氏はとくに日本との関係の重要性を理解していた。

    この映画の監督、佐野伸寿さんによると、ナザルバエフ大統領(当時)から阿彦さんの人生の映画化の話が出たのは2017年だそうだ。折しも2015年に安倍総理(当時)が中央アジア5カ国を歴訪し、日本のこの地域との協力に対する本気度が示された。2016年6月にカザフスタンは国連総会で翌2017年からの安保理非常任理事国(2年任期)入りを決め、1年先に非常任理事国に着任していた日本とは2017年に国連安保理での任期が重なることになった。両国の関係を発展させる好機となる時期、と見ることができるだろう。

    2016年11月に4度目の来日を果たしたナザルバエフ大統領(当時)は、日本の国会での演説で、核兵器廃絶・核実験禁止に向けた自国と自身の功績と日本との共同歩調をアピールするとともに、ソ連時代にカザフスタン領内に抑留された日本人の不屈の精神に敬意を表し、そして阿彦哲郎さんについて語った。映画に先駆けて、カザフスタンのアウエゾフ記念国立アカデミー劇団が独立25周年記念の一環として演劇『アクタス村の阿彦』を制作。カザフスタンに次いで日本でも上演された。経済的な関係だけでなく、人間どうしのつながりを印象付けることで、そこからさらなる両国関係の深化につながる可能性が期待できる。 これに関連して隣国ウズベキスタンに触れておきたい。ウズベキスタン共和国は、カザフスタン同様、ソ連解体にともなって独立した国である。中央アジア地域の文化・教育の中心として古くから名をはせるタシケントやサマルカンドといった大都市を擁するウズベキスタンは「中央アジアの代表」をめぐってカザフスタンとライバル関係にある。第二次世界大戦後、ウズベキスタンにもシベリアで抑留された日本人が数多く送られた。首都タシケントがほぼ壊滅した1966年の大地震にも耐えたナヴォイ劇場の建設には日本人抑留者がたずさわっており、劇場にはその功績をたたえる文言がウズベク語、英語と並んで日本語でも記述されたレリーフが飾られている。抑留中に現地で亡くなった日本人を埋葬したタシケント市ヤッカサライの日本人墓地はウズベキスタン政府の協力もあって美しく整備され、長期にわたってその清掃・管理を行ってきたファジーロフ氏には2017年に日本政府から旭日単光章が授与された。日本人墓地の向かいには、ウズベキスタン市民スルタノフ氏が私財を投じて建設・運営している日本人抑留者資料館があり、スルタノフ氏も2016年に旭日双光章を受勲した。ナヴォイ劇場や日本人墓地などは日本の情報番組や旅番組で何度も取り上げられており、中央アジアに送られたシベリア抑留者の話といえば、カザフスタンより圧倒的にウズベキスタンのほうが日本人には知られている。阿彦さんの物語の映画化を、ウズベキスタンとのライバル関係、ウズベキスタンへの対抗意識と絡めて興味深く見る現地通もいる。

    さて、このように背景を見てみると、ナザルバエフ大統領(当時)としては、日本との関係の深化を狙い、日本とのつながりのシンボルとして阿彦さんの物語を考えていた可能性が高い。前述した2016年11月の日本の国会演説で、ナザルバエフは阿彦さんに触れた部分で「カザフ人の優しさがこの方の命を救ったのだと思う」と述べている。映画では、強制収容所での苦しい日々を精神的に支えた人物として、同房のカザフ人、アカジャンという元ソ連軍将校が登場する。しかしその一方でそれ以外のストーリーも多く、どちらかというとソ連の体制、ソ連の収容所管理の理不尽さを描いた部分の印象が強い。ソ連から独立した国々の中には、資本主義経済導入にともなう貧富の格差や失業、縮小される年金などに対する不満の対岸にあるものとして、(表向きには)失業がなく平等であったソ連時代への回帰を望む声が一定数ある。カザフスタンも例外ではない。長期にわたって強権的な体制が続き汚職が蔓延すると、抑圧された中でもそれなりに生きていけたソ連時代を美化する声が聞かれるようになった。佐野監督とともに仕事をしている映画人たちはそれとは逆で、ソ連時代ほど表現の自由が制限されることなく、ソ連のような厳しい検閲もない新しい時代において、自身の才能と才覚を活かして活躍している人々だ。カザフ人英雄アカジャンとの交流よりも目立つ「ソ連的なもの」の悪性は、『阿彦哲郎物語』を観るカザフスタンの人々に対するソ連へのノスタルジーを捨てるべきだというメッセージかもしれない。
    ただし、この映画の完成(2021年12月末)後、大きな変化が起きる。ロシアがウクライナに侵攻し、ロシアと軍事同盟を結んでいるカザフスタンでは戦争に巻き込まれる不安に人々恐怖した(トカエフ大統領はウクライナ東部の「独立」を認めず、参戦を拒否している)。ロシアの部分的動員令発令をきっかけに、徴用を避けて多くのロシア人がカザフスタンに流入し、それによって物価の急激な高騰など、カザフ人の生活に影響が出ている。こうした状況は、多民族の融和的な共存を誇りにしていたカザフスタンのナショナリズムのあり方に変化を起こし、カザフスタンに以前から住んでいたロシア人たちは(新参者と混同されないためにロシア語でなく)カザフ語を勉強し、カザフ語のほうを多用するようになっているという。このような状況下では、おそらく「ソ連へのノスタルジーの否定」というメッセージはあまり意味を持たないだろう。 阿彦さんを主人公とする映画を日・カザフスタン合作で制作することを要請したナザルバエフ氏は、この映画の完成(2021年12月末)直後の2022年1月初頭にカザフスタンで起こった大きな騒乱により失脚した。この映画が、それによってお蔵入りにならなかったことは幸いだ。ウクライナ問題を中心に、カザフスタンを含む旧ソ連情勢が大きく変わる中、この映画がカザフスタンの人々に、そして日本の人々にどのように受け取られるか、それは両国の関係にどうつながるか、非常に興味深い。

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